太田宿見どころマップ

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旧太田宿本陣門 祐泉寺の歌碑 太田の渡し 旧小松屋 旧太田脇本陣林家住宅 長屋門 逍遙公園と逍遙山つばきの部屋 枡形(ますがた) 道標 虚空蔵堂とムクの木 「是より左京道」の石碑 中山道会館情報 地図の中の写真をクリックしてみてね

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「旧太田宿本陣門」

 

文久元年(1861年)に、仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍徳川家茂に嫁ぐために下向した際に新築された門です。元は、本陣の西正門であったものを東門のあった現在地に移したもので、旧本陣の偉容を偲ばせる格式のある門です。

 

旧太田宿本陣門

屋根に亀

「祐泉寺」

 

500年の歴史をもつ臨済宗の古刹。槍ヶ岳を開山した播隆上人や日本ラインの命名者である志賀重ミの墓碑があるほか、松尾芭蕉句碑・坪内逍遙歌碑・北原白秋歌碑などがあります。

 

坪内逍遙歌碑

祐泉寺を南から

「太田の渡し跡」

 

 「木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい」 とうたわれた木曽川の渡船場跡で、史跡が建ち、石畳が残っています。平成6年に河床から大規模な化石林が発見され、一帯は化石林公園として整備されています。  -化石林映像-

 

太田の渡し石畳

化石林公園

「旧小松屋」

 

江戸時代に旅籠を営んでいた建物を、そのまま活用した太田宿のお休み処です。近世町屋建築の落ち着いた雰囲気の中、畳の上でおくつろぎください。庭は、加茂農林高校の生徒によってつくられました。美濃加茂市出身の文学者・坪内逍遙らの展示もあります。
*月曜日は休館日です。

 

旧小松屋

小松屋の庭園

「旧太田脇本陣林家住宅」

 

明和6年(1769年)に建てられた国重要文化財の建物で、格子戸・連子窓・屋根の両端にあがるうだつなど、江戸時代そのままの姿を今に伝えています。明治15年(1882年)、板垣退助が岐阜で遭難する前日に逗留した場所としても有名です。
*原則として火・水曜日のみ公開 (要予約。林家:рO574−26−0740)

旧太田脇本陣林家住宅

 

「長屋門」

 

太田宿には古い建物が町並みの中に多く見られるが、 中でも街道から川端に近い中町にある元太田町長林家五郎旧宅(現座馬家) の総桜材造りの長屋門は貴重な建物である。嘉永元年(1848年)建築。

長屋門

 

「逍遙公園と逍遙山つばきの部屋」

 

今の太田小学校の場所には、太田代官所があったといわれている。太田代官所は、尾張藩の重要な拠点として、中山道美濃路の行政の中心であったところ。代官所役人の子息として生まれた坪内逍遙は、少年時代虚空蔵堂を遊び場に過ごしました。太田小学校北には逍遙公園があり、顕彰碑が建っています。また、太田小学校には逍遙山つばきの部屋があり、逍遙に関する展示をご覧いただけます。
*逍遙山つばきの部屋は、休日は休館日です。

 

逍遙公園

 

「枡形(ますがた)」

 

太田宿の入口。虚空蔵堂の東から、ここで二度直角に曲がって本陣や脇本陣のある町並みに中山道がのびている。これを枡形といって、宿場町に見られる特有の仕組み。戦いのとき、曲がり角で外敵を防ぐために工夫されたものである。町並みの東、祐泉寺裏にも同様の枡形が見られる。

 

枡形(ますがた)

 

「道標」

 

神明堂の道標には、「右東京善光寺 左飛騨高山」と記されている。下町の道標には、「右関上有地 左西凶京伊勢」と記されている。太田宿は、中山道と郡上街道・飛騨街道の分岐点として栄え、江戸時代から交流の盛んな土地であったことがわかる。

 

「虚空蔵堂とムクの木」

 

坪内逍遙は、かつてよく遊んだといわれる虚空蔵堂。逍遙は、晩年に夫婦で太田宿を訪れた際、 当時を懐かしみ、隣りに立つ「ムクの木」の前で写真を撮影した。中山道は虚空蔵堂から川端に下り、今も 「是より左京道」の石碑が残されている。

 

虚空蔵堂とムクの木

ムクの木説明

道標

丸形ポスト さぁ何処にあるでしょう

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