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「太田宿の生い立ち」 |
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太田の渡しは、十三世紀以前から存在していたと考えられます。しかし、ここが宿のひとつとして定められ、繁栄するのは、徳川家康によって伝馬制が整備されてからです。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、政治・軍事上の必要から伝馬制を拡充し、伝馬を提供する所として宿を定めます。中山道は慶長7年(1602年)に伝馬制ができ、宿のひとつが太田宿でした。万治元年(1659年)に五街道(東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)が定められ、太田宿は中山道69宿の一つとして栄えることになったのです。江戸からは51番目の宿場にあたり、本陣・脇本陣・問屋・旅籠屋・遊女屋などで賑わいました。 |
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「和宮様が泊まった宿場町」 |
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中山道は別名「姫街道」と呼ばれたほど、天皇や公家の姫君が多く利用した街道でした。中山道を選んだのは、東海道は交通量も多く、途中に遭難の危険の高い七里の渡しや大井川があったためといわれています。皇女和宮も中山道を進んだ姫君の一人でした。文久元年(1861年)、将軍家茂に降嫁するために江戸に向いました。その行列は前代未聞の大行列といわれています。皇女和宮は太田宿本陣に宿泊し、今も残る本陣門は、その際に建て直されたものといわれています。婚約者と別れて嫁ぐことになった皇女和宮は、どんな気持ちで太田宿の一夜を過ごしたのでしょうか…。 |
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「太田宿にゆかりの人たち」 |
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皇女和宮…(1846〜1877) |
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仁孝天皇の皇女。公武合体運動に伴い、14代将軍家茂に嫁ぎました。文久元年(1861)に、前代未聞の大行列を伴って、太田宿に宿泊しました。行列は前後4日間も続いたそうです。 |
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安藤広重…(1797〜1858) |
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江戸後期の浮世絵師。「太田の渡し」を描いた「木曽海道六拾九次」をはじめ、「東海道五拾三次」「名所江戸百景」などの名所絵、風景画で一世を風靡した。 |
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播隆上人…(1786〜1840) |
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日本山岳史上、壮挙といわれる槍ヶ岳の開山を果たした僧。太田宿をたびたび訪れ、晩年は祐泉寺にわらじをぬぎ、脇本陣林家で没した。 |
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坪内逍遙…(1859〜1935) |
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太田代官所の手代の子として生まれ、明治から大正にかけて文学・演劇・教育の分野で偉大な足跡を残した。著書「小説神髄」やシェークスピア集の翻訳などで知られる。近代日本文学の先駆者。 |
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志賀重ミ…(1863〜1927) |
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地理学者にて政論家。美濃太田から犬山にいたる木曽川の風景を、ドイツのライン河と重ね合わせて「日本ライン」と命名したことで知られている。祐泉寺に墓碑がある。 |
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岡本一平…(1886〜1948) |
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漫俳ちいう新しい文芸をこの地方で広めた漫画家。疎開先の白川町から美濃加茂市古井町に移住し、最後はそこで急逝。芸術家・岡本太郎氏の父としても知られる。 |
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